いつの間にか後ろにぴったりついていた車のドアが開くと3人の男がM-16とピストルを注意深く構えて中腰で近づいて来る。ポリスだ。何も悪いことはしてないつもりだが、何があってもおかしくない。例え殺人でも。ここはウォーターハウス。MUTE
BEATのマネジャーだった遠い昔の話でありつい昨日の話でもある。
「スレンテン」で歴史的な大ヒットをかっとばしたウエイン・スミスの住むシーヴュ−ガーデンまで、エアコンなんてものはハナッからついていないボロ車で出かけた時に「これからタビーの家に行くから送ってくれ」と言われ、てっきり「タビー・ダイアモンドなら久しぶりに会いたいな」と行ってあっと驚いた。なんとそこは、あの「燃える家(ファイアーハウス)」だった。王冠を被った写真を見たことがある巨体の男がルード・ボーイ達の中にすっくと眼光鋭く立ち尽くしている。キング・タビーだ。紛れもないこの男の根城、キング・タビー・スタジオに来てしまった。
ここからDUBが初めてクリエイトされ、あのオーガスタス・パブロやスクラッチ・ペリーたちの名作が産まれ、サイエンティスト、ジャミーズ、フィリップ・スマートもここで修業をしたのかと思うと体が金縛りにあって、あの赤いフェーダーがついたコンソールのうす暗い神聖な小部屋にどうしても入ることができなかった。この男と出会えた偶然は今でも夢かも知れないと思う。しかし俺が持っているダブプレートにはKING
TUBBYのラベル、そこには彼のサインまである。やはり夢ではない。
89年、既にMUTE BEATとの付き合いは4年間となり、その間、当時の最新作『マーチ』を入れたら35曲のレコ−ディングに立ち会い、口から出まかせのようなアメリカ・ツアー(SF、LA、NY)をでっちあげ、ジャマイカのこれぞというミュ−ジシャン達と共演やコラボレーションをしてもらっていた。SKAをブギウギ・ピアノから発明したというグラッドストン“グラディ”アンダーソンを皮切りに、ワンドロップの雄であるルーツ・ラディックス、渋谷クアトロのこけら落としに共演したスカタライツのサックス奏者ローランド・アルフォンソなどである(ローランドのはライヴ盤がある。損はさせません)。
だったら次は盤の上での競作だろう…と何となく考えていた俺は今までの曲の中からメンバーにこれぞという曲を選んでもらい、こうして2度目の訪問をしたのだ。タビーのスタジオでMUTE
BEATのリミックス、つまり元祖総本家でDUBを創ろうとやってきたのは当然のこと。思えば日本初のリミックスだろう。
NYではサブが奴の家の地下室でブルワッキーことロイド・バーンズとリー・ペリーでMUTE BEATの音をぶっ壊してくれることになっていた。
家元MUTE BEATからは歌心あふれるDUB野郎、宮崎DMXが奴の人生同様わがままな世界を創ると言うことになっていた。この締切りのないアイディアはいつ終わるとも、終わってほしいとも思っていなかったが、89年4月には遂に8曲が完成した。
が、いざ発売の段になってインストの曲を名前を変えて発売するのは無理だと当時OVERHEAT RECORDSをリリースしていたレコード会社からクレームがついたが、そこは担当者の計らいか、限定盤ということで何とか決着がついた。もちろんレコード会社の思惑は全くハズれて即ソールド・アウト。今ならタビーとリー・ペリーというだけでヨダレを流す病気持ちもいるかも知れぬが、早すぎたのか、遅すぎたのかMUTE
BEATファン以外には余り理解しがたいものだったのだろう。それが証拠には当時、定評のあった音楽誌『ミュージック・マガジン』という雑誌でのMUTE
BEATのレコード評などは「楽器を勉強しろ」などというものだった。笑っちゃうことに、それが今月号の同誌は表紙がこだま和文で「MUTE
BEATとその遺伝子」とかいうタイトルだ。ライヴ・ダブ・バンドとしてガンガン活動をしていたときには注目しなかったようだし、レゲエのクリエイティヴな面にも冷淡であったように思う。エンジニアが正式メンバーとして在籍し、ドラムとベースが繰り出す強靱なグルーヴに絡む、東京の深い闇の中から響くホーンセクションのやばさを理解できなかったのだろうか? 「トウキョウ・ソイ・ソース」というシリーズで行われていたS-ケン、じゃがたら、トマトスとの共闘ライヴの評価は如何に。いや、そんなことはどうでも良かった。
さて、今回の『DUB WISE』のアナログ発売である。よく友人から「アナログは出せねえのか?」などと脅迫されることはあったが、ざまあみろ、遂に出しますよ。それもアナログ用にリマスタリングをしてだ。俺がやったんだからCDと聞き比べて下さい。はっきり言って文句無しで数段いいと思う。
他にも気になっていることがあった。マンハッタンのSOB'Sでやったライヴも見に来てくれたレゲエに深い理解を持つNY在住の作家、アラン・ライアン氏のライナーノーツも当時は事情があって掲載できずにいたが、今回ようやく約束が果たせた。
俺達との仕事のあと、音楽界の歴史的な偉業を残したキング・タビーは89年2月9日に何者かによって射殺された。次の仕事の約束も果たさぬままに。
あの時ジャケットを描いてくれた故ナンシー関さんにもこの『DUB WISE』を捧げます。
数年前のこと、タビーの赤いフェーダーをもう一度だけ見たくてウォーターハウスまで一人で出かけたが、既にそこは人手に渡っていた。スタジオのあった裏側に廻ると“KING
TUBBY STUDIO”と大きく木彫りされたドアだけが残っていた。帰りぎわにどこからともなく現れたのが、デジBのエンジニアとして活躍していたタビーの弟子だったピーゴ。奴もあの赤いフェーダーの行方は知らなかった。
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